学校での体育の授業は、みんなと同じように体操服に着替えてグランドに出ていましたが、運動はできる範囲で行い、できない時はいつもグランドの端で草むしりをしていました。
高校2年のある日、1.5Kmのマラソン練習がありました。いつもの様にグランドの端に行こうとした時、先生が私を呼び止めました。そして、ニコニコしながらこう言ったのです。

「なぁ、走ってみるか?」

その頃の私は、短い距離を走ることが出来ました。もちろんみんなよりかなり遅いですが。
最初は「えぇ~」とは言いましたが、実はとても嬉しかったことを覚えています。
「走ってみる」 そう返事をし、初めてスタートラインに立ちました。
1周250mのトラックを6周、ホイッスルの音と共にみんなと一斉に走り出しました。

みんなはすーっと前に進み、私はすぐ一人になりました。1周目を超えたころから息が苦しく、わき腹が痛くなりました。みんなは私の横をどんどん通り過ぎて行きました。みんなは、通り過ぎざまに「頑張れ!」「頑張れ!」と言ってくれました。その時の光景は今でもよく覚えています。ゆっくりと後ろに流れる地面と、その上を交互に行き来する自分の足先、そして、「頑張れ!」と言う声。

2周目を過ぎたころ、ぼろぼろと涙が出てきました。苦しくて、悔しくて、情けなくて、うれしくて。
2周半で限界を迎えた私は、走るのをやめていつものグランドの端へ行き、泣きながら草むしりを始めました。

体育の授業が終わると、先生が「体育教官室にこい」と声を掛けてきました。
私が体育教官室に入るなり、先生はニコニコしながらこう言いました。
「2周半も走れたんじゃん。すごいじゃん」
他にもいろいろ言ってくれたのですが、正直覚えていません。ただ、「人は人、自分は自分。自分のできることを精一杯やればいい」と、言ってくれたように思います。

教室に戻ると、みんなが「大丈夫か?」と言ってくれました。もちろん泣いていたこともいじられましたが。
しかし、はじめて走ったことで起きた出来事、走る直前の緊張感、敗北感、仲間からの掛け声、2周半走れたという達成感、それら全てが気持ちよかったと感じていました。

次の日、身体に変化がありました。とても足が動きやすく、歩きやすかったのです。体を動かせばその時は疲れるけど、次の日から動きやすくなる事に気付いたのはこの時です。

この日から、日曜日はなるべく長距離を歩くことに決めました。この日が、私が歩き始めた最初の日です

歩いている時、たまにあの時の流れる地面と自分の足先を思い出します。その度に先生にお礼が言いたいと思っていました。

そして、33年経ったある日、その時は突然やってきました。
部活でバスケットボールをしている高校2年の娘の試合を見に行った時です。体育館にあの先生の声が響いていました。なんと相手チームの顧問をしていたのです。
声で懐かしさを感じ、姿を見て先生だと確信しました。先生は少し老けていましたが、すらりとした姿勢は変わりありませんでした。

試合が終わり、片付けが始まった時、私は先生に声を掛けました。
「先生、お久しぶりです。僕のこと覚えていますか?」
私は33年前の出来事を説明したのですが、先生は覚えていませんでした。しかし、昔と同じ様にニコニコしながらこう言いました。

「君が覚えてくれているという事は、僕は良い事をしたのかな」

私は、歩くことを教えてくれた先生に、33年分の「ありがとう」を言いました。